金のさかなのゴショーの叙事詩
Jaroslavs Kaplans(ヤロスラフ・カプラン)

ビジネスのおとぎ話
英知が輝く
「わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの雲ゐにまがふ 沖つ白波」

『百人一首(76番)』より
藤原忠通作
親愛なる読者の皆様、どうぞ想像してみてください。このうえなく巨大な水槽に、(まったく非の打ちどころなく)実直で心優しく、魔法のちからを持った金のさかながおります。彼女の名はゴショーといいます。
想像してみてください…
この驚異に満ちた広大な水槽の中で、さかなのゴショーは自分の進む方向や速さ、それから深さまで自分ひとりで決めることができます。 その点では、この金のさかなはまさに貴族のように自分の生き方を自分で決める力を持っています。つまるところ、水槽の温度、自分が味わう昼食や夕食、誰を大切にして誰と敵対するのか、自分の住んでいる所の酸素の濃さ、水槽の底に植える草(あるいは水草)の種類まで、すべて自分で決めているのです。
独立心旺盛な金のさかなは?
水槽の中では、われらが金のさかなはすべてを支配しています(と、彼女は信じています)。
・温度
・食べ物
・酸素の濃さ
・水槽内の他のさかなたちの行動
水槽内ではどこでも、金のさかなは自立しています。
ゴショーの生活にはたったひとつだけ「取るに足らない」問題がありました。
ただ、ひとつの「小さな」
問題
彼女が暮らして泳ぎ回っている水槽には、それ自体のうごきがあるのです。この金のさかなは、水槽のうごきにはほんのわずかに気づいてはいますが、あまり理解はしていません。
水槽にはそれ自体のうごきがあるのです。
水槽自体がうごいているといっても、別に驚くことではありません。この物語は「おとぎ話」と銘打たれてはいますが、われらが驚異の水槽は寓話の世界にあるわけではなく、このお話の金のさかなだって空想の世界にいるわけではないのです。実のところ水槽はこの地球という星の……つまり天の川という興味深い名で呼ばれるこの銀河の、太陽系の、第3番惑星の……とある国N、それは、あるいは絶えず美しい波の打ち寄せる海という「国」としましょう。その非常に具体的な経度M、どちらかといえば洒落た緯度Pに位置しています。
水槽は現実世界にあるのです
この地球は太陽のまわりをめぐり、地軸に沿って回転していて、地上のあらゆるものもそれと一緒にめぐりまわっているのです(目をまわさないように気をつけないとね)。私たちの(というよりは、ゴショーの)水槽ももちろん例外ではありません。日の出から日の入りまでのうつり変わり、夜と昼が織りなすワルツ、潮の満ち引きを起こす月光ソナタ、そしてめぐりやむことのない四季のメリーゴーラウンドといった、人々が日々目にする自然現象はこうした地球のうごきから生み出されているのです。 しかしわれらがゴショーにとっては、日の出はただの日の出、日の入りはただの日の入りにすぎません。地球の公転なんて、いったい何の関係があるというのでしょうね?
それでも、私の大切な読者であるあなただって、まさにこの文章を読んでいる今この瞬間にも、惑星のうごきとともに絶えずめぐりまわっているのです。
ゴショーは「よその世界」、つまり水槽の外で起きていることにほとんど注意を払いません。水槽の内側で起こる出来事に完全に(あらゆる意味で)没入しているからです。読者の皆様に請け合いますが、水槽内の世界では本当にさまざまな出来事が起きているのですから。この金のさかなには、外の世界の「霧につつまれた」知見に注意をはらうべき理由も意味もあまりわかりません。 せっかく魔法の力を持っていても、ゴショーはしばしばこうした頑固な世界観によって危険にさらされます。われらがヒロインの運命は、周囲の環境に大きく左右されるからです。
水槽
アパート・家
町・国
惑星
銀河
あなたも絶え間なくうごいています
(気付いていないかもしれませんが)
例を挙げましょう。仮に外の気温が急に下がったとしたら……水槽の中の暖かな水が急に冷え込み、そればかりかゴショーと一緒に凍りついてしまうということですよ。たとえ金のさかなが外の気温のことを何も知らなくても、それは起こります。
外の変化は水槽に影響します
はっきりさせておくと、ここで私の言う「環境」とは、(水槽の中の)金のさかなを取り巻く空間ではなく、慣れ親しんだ水槽の外側、いわば「水槽外界(パラクアリア)」を指しています。
ここで読者の皆様方はいみじくも疑問に思われるかもしれません。ゴショーの水槽はなんでまた、海神の司る大海原の、何もないど真ん中を漂うことになったのか。もしかしたら、はぐれものの突風や竜巻におそわれて快適なわが家からさらわれたのかもしれません。
さて。外の世界を知らないゴショーは、また「よその」空間を突き進んでいく自分の水槽のうごきにも頓着しません……うっすらと無意識のうちに「どうも外に何かあるみたい」とは感じているかもしれませんが。いずれにせよ、水槽自体のうごきは全く予想がつかず、時には不安定なもので、われらが小さな金のさかなに大なり小なりトラブルをもたらします。
くなったり
くなったり
別の何かが起こったりします
時速100キロ
時速10キロ
たとえばゴショーが、生きるために大切な用事から一息ついて、今こそ人生を楽しもうと、暖かく魅惑的な南の水域へとバケーションに出かけるとします。よーし決めたわ!とばかりに、さかなは時速10キロの速度(としましょう)で南へ泳ぎ出します。しかし、わざわいなるかな、水槽そのものはわれらが旅するヒロインの気づかぬうちに、彼女にはあずかり知らぬ力によって、時速100キロで北へと進み始めます。
水槽国
水槽外界
(未知の地)
ゴショーの世界の地図
突然の変化
ここはどこ?!
こういった変化の原因は何でしょう?
以前
現在
(突然で不測の)
あるいは初めから波間を漂っていたのかもしれません。結局のところこれはおとぎ話で、ゴショーは魔法の力を持つ金のさかななのです。ですからさしあたり、この現象にはこれ以上触れずにおきまして、お話を先へと進めましょう。
ちょうどゴショーを見つけました。南の暖かくて撫でるような海流との出会いに向け、せっせと泳いでいます。やさしい波に浸かりながら日光浴して、その海のこの上ない美しさと穏やかさの中で息をすることを楽しみにしながら…。しかし、彼女のまわりは激しい暴風雨や旋回するハリケーン、土砂降りの冷たい雨ばかりが取り囲んでおります。ゴショーは容赦ない自然の力の中でもがくものの、目的地の南の海域で自分に与えられてしかるべき穏やかな心地良い静けさにひたるという、心の奥底の神聖な願いをかなえることはできぬまま、永遠の時が流れていくのでした。
この寓話では、水槽は事業家(金魚)が生活をささげて経営するビジネスを指しています。それは事業家が生息する自然の場所であり、「遊泳の自由」である領域を画定する「自然な」境界線…つまり、事業家がそのキャリアの初期から十分に認識していた境界です。
ここはどこ??!
かの有名な百人一首にある歌をもじって「わたの原…久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波 我やは思はむ」とでも言いましょうか。周りには「わたの原」しかないのに、水以外のことを勉強する理由なんてあるだろうか? と、さかなのあなたは考えてきたことでしょう。 全くその通りです…金のさかなが、水中に潜ったカモメに波から引き上げられるその瞬間まではね。2秒で、ゴショーは見事ながらもおぞましいことに、水中だけが世界のすべてではないということに気が付きます。
なんということでしょう……この独立心旺盛でビジネスマインドあふれる金のさかなの混乱たるや、想像もつきませんよね。
水槽
工場
すべて知っているし、なじみがあるわ
ここはどこ?
そして、あなたもそういった小さなさかなの1匹であるならば、これまで水の中だけで息をして生活をしてきたことになります。知っていることも、見てきたことも、すべてが水に関しています。生まれて初めてエラで息をした瞬間から、まわりには水しかなかったのですから。さかなのお父さんやお母さんも水のことばかり話していました…それも、きれいな水槽国の言葉でね。叔父さんや叔母さん、兄弟姉妹、そればかりか遠い親戚にいたるまで水の中で幸せに暮らしてきましたし、今も幸せに暮らしていますし、これからもきっとそうでしょう。本当に自分たちは水中で暮らしているのか、などという疑念は、これまでにみじんも抱いたことが無かったはずです。
考えてみてください。長年製造業に勤めてきた人であれば、製造業がその人にとっての「水」となります。製造のことしか知らないのです。その人のお父さんや、お父さんのお父さんも製造業に勤めてきました。大学で学んだことも製造についてで、初めてのインターンシップも商品を製造する工場でした。30年にわたって学んできたことや、してきたことはすべて、コンベアと製造に関することばかり。そのため、まわりには製造業以外なにも無いと考えてしまいます。
われらが愛すべき金のさかなは、よその世界との繋がりがほとんど無いため、よその世界についてほとんど何も知りません。 「水槽外界(パラクアリア)」から独立した(とゴショー自身は思っている)自足的で「自律した」あり方は、それほど悪くはなさそうです。 水槽にはゴショーの意思の及ばないうごきがあるのかもしれないという考えは、しっかりとした合理主義的な彼女の考え方からすると、ちょっと深遠にすぎる理解しがたい概念でした。
ゴショーは水槽の中で自分が正真正銘の女王様であることを確信していて、好きなことばかりしているんです(そうもいかない時もありますが)。ゴショーにとってこれはダキョーできないことなんです。ただ、水槽の壁の遥か彼方、超現実的なまでに遠いところにも何かがあるという思いつきは、ゴショーにも1回か2回(多くて3回)はありました。その時でさえ、それはあいまいな、ぼんやりとした夢に過ぎなかったのです。
ゼネラル・エレクトリック社の伝説の最高経営責任者であるジャック・ウェルチの名言に、「組織の内部の変化が外部の変化についていけなくなったとき、終わりはすぐそこに来ている。」というものがあります。
そして息絶えるのです。
その翌日
ある日
愛すべき小さなゴショーにとって生活はただ続いていくものです。水槽の流れが穏やかで清閑で、大きくて澄み切った鏡のように波風のない日もあれば、次の日にはすべてがひっくり返ることもあります。どこからともなく突風が吹いて、水が緑色に濁るのです。そして時には禍々しく暗い青に染まり、完全な漆黒のように見える時すらあります。他のさかなや貝、砂、すべてが刹那のうちに目の前から消えていきます……ただ見えるのは、行く先々ですべてをうち砕き荒れ狂う猛烈な波ばかり。
あなたのビジネスは、あなたの水槽です
家族
教育
インターンシップ
キャリア
ビジネスの経営
:ひとりの影響、能力、そして関心領域
:ひとりの管理外領域
金のさかな(水槽ではなく)の、外の世界とのつながりは
もろく不安定です
未知の領域
悲劇的な結果
ジャック・ウェルチ
ゼネラル・エレクトリック社の最高経営責任者
(1981~2001年)
組織の内部の変化が外部の変化についていけなくなったとき、終わりはすぐそこに来ている。
水槽の中での暮らしがゴショーにとって、とてつもなく辛く感じられる時には。 ゴショーはそんな時、どうしたらいいのでしょう。 まあ、彼女としては、存在しうるあらゆる世界の中でも最高のこの世界で、すべてが上手くいくことを全力で信じるしかないのですが。
ここで、ゴショーはかつて受けたフランス語の授業を思い出し、こう考えます。「C'est la vie.(人生とはそんなもの。)」いかにも、ゴショーは「世界とはただそういうもの」だと信じているのです。物事は自然の摂理によってこうなるのだと。言わずもがな、疑念や将来への恐れ、「非生産的で当てのない年月」への後悔や、過去の栄光への執着は絶えず打ち寄せるものです…
われらが愛すべき金のさかなの心の中に、何度も疑念が忍び寄ってはふくらみます。海坊主が邪悪な笑みを浮かべながら、ゴショーとその向こうにある深い群青の海とのあいだに意地悪く体を強く押しこんで、妨害して、妖術を駆使して邪魔をしているのではないかと。
そして親愛なる読者の皆様、まさにこれこそが、われらが金のさかなの本当の問題なのです……つまり、ゴショーはよその世界の変化についてほとんど何も知りません……。その変化を観察したり認識したりすることができないのです……今はまだ。
昔々、私もそんな金のさかなでした……。しかし、自分の水槽がうごいていると気づいた時、それが自分の意思や知識に関係なく明らかになった時、私は少しずつ疑問に思うようになったのです。さまざまな面で心優しい金魚(事業家)たちがいる、私たちのこの水槽を、誰が(なぜ、どのように、そしてどこで)動かしているのかと。
水槽はうごいています
そういうものなの?
何に影響されるのでしょうか?
残念ながら、われらが勇敢な魔法の金のさかなは、これではほとんど助からないでしょう。果敢な努力に加えて、その努力を行使する正しい方法を選ばなければいけないのです。たとえば、自分の水槽が実は真北に進んでいて、彼女自身も北極圏に直行していたと知った時にだけ、ゴショーは自分の船を保温して、最近手に入れたきらびやかな水着の代わりに着心地が良くて暖かい(そしてとても豪華な)毛皮のコートを買う場所を銀座で探すのに必要な対応をとることができたでしょう。ハワイで買ったお洒落な水着は北極海ではあまり役に立ちませんからね…。
不思議な潮の流れが、疑うことを知らない金のさかなをついに北極まで連れてきてしまった時(もしゴショーがカモメから逃れることができたらの話ですが…なんといってもゴショーは魔法の金のさかなですし)、ゴショーはそれでも暖かくてやさしい海域に到達するという崇高な欲望を断固として貫こうとします。そしてわれらが勇敢なヒロインは、凍てつく厳しい北極海でこごえ死んでしまう直前に、容赦ない寒さで震えながらも半分凍りかけた金のさかなの脳みそをフル回転させ、南方への速度を単純に時速10キロから11キロへ、あるいはさらに、いいですか、時速12キロ以上にまで引き上げる必要があると賢明にも結論付けます。 合理主義的な金のさかなの目からは、このうえなく論理的な結論に見えます。問題を解決して成果を出すには、もう少し頑張ればいい。そうでしょう?
奇妙にも、海で嵐がある時はいつも、われらがゴショーは何が起こっているのか、どうして運命を司る神は水槽内の生活に栄枯盛衰を与えるのか、真摯に考えるのです。
周りの事業家たちが、市場シェアの低下や売上の減少、競争の激化、従業員のやる気の低下といった新しい嵐に直面した時はいつも事業家たち自身がいる「水槽内」から解決策が提案されます。事業家たちがほとんど気づかないのは、必ずしもそれが自分の注意と理解を求める根城であるところの水槽の問題というわけではなく、愛してやまない水の問題というわけでもなく、むしろ慣れ親しんだ流れの向こうに待ち受ける、よその世界の果てしない「市場大陸(マーケットランド)」に存在する要素の問題でもあるということです。
でも今のところ(というか流れでいくと)、ゴショーは予測不可能で不安定な潮の流れの領域に永久にとどまり…残酷で辛辣で敵意に満ちた海の中で、遅かれ早かれこごえ死ぬ運命にあります。 とはいえ、親愛なる読者の皆様はどうお考えでしょう?
売上
競争
やる気
水槽内の周りで変化するものなんて関係ないわ
もっと速く泳がなきゃ!
耐えて進み続けるのよ!
t = -34℃
?
状況の理解は計画を容易にします
?
先に挙げた原理をレオナルド・ダ・ヴィンチが確立した瞬間から500年の時が過ぎましたが、彼の格言は芸術家たちだけでなく、現代のすべての事業家たちに対しても確実に言えることです。私は、事業家たちの「事業の死亡率」が高い要因に関する大規模な研究をし始めてもう6年になりますが、事業家精神の哲学における、非常に興味深く極めて重要な問いに思いあたったのです。 「自分自身の活動領域を認識するのに最適な視点…つまり、自身や今後の顧客にとっての新しいチャンスを見つけるうえで事業家たちに役立つような視点は何か。」
視点は道しるべであり、出発点でもある。それなくしては何事も上手く果たせない。 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)
第2部:挿話(絵画展への通り道)
読者の皆様、もし一刻も早くゴショーと再会したいのであれば、どうぞお気兼ねなくこの挿話を飛ばして「第3部、事業家の教訓を描く絵画展」へお進みください。ただ、何故「絵画展」と呼ばれているのか気になるならば、またこの物語が成立した経緯を垣間見たいなら、あと1、2ページ、もしかしたら3ページほど我慢してお付き合い頂けますか。もしかしたら、興味深いと思って頂けるかもしれません。この挿話を読み終わる頃にもゴショーは相変わらず、冷たかったり暖かかったり、ぬるかったりする海を泳いでいますから、きっと…。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
事業家の活動
視点は道しるべであり、出発点でもある。
それなくしては何事も上手く果たせない。

チャンスを見るのに最適な視点とは何でしょうか
優れた芸術家
(1452~1519)
ここで、芸術と事業家精神というふたつの世界をいくつかの点から関連付けてみましょう…というのも、このふたつには共通点がたくさんあるのです。事業家精神と芸術のどちらにおいても、視点の選択によって思考のパラダイムが決まります…信念や世界観、存在の条件にまで影響を与える事柄であればなおのことです。
いかにも、1900年代初頭にピカソは、この様式での自身の芸術へのアプローチについてこう語っていました。「私は私が思うとおりに対象を描く。
見えるとおりに描くのではない。」
芸術において、現実と現実を描写している芸術作品には違いがあります。この違いは、周囲の世界に対する芸術家自身の見方を通してさらに強調されることになります。 ルネッサンス以降、ヨーロッパの画家たちは素描や絵画で三次元空間の錯覚を作り上げようと努力してきました。絵画を見る人には、たとえば、そこに存在する光景や室内の風景、人や物などを、まるで窓を通して見ているかのように、ある特定の位置から観察しているかのように見て欲しかったのです。 しかし、20世紀初頭が量子論や相対性理論の発展とともに転がり込んで来た時、視覚芸術でも新たな運動が生まれました。それは、物事の唯一の適切な視点という原則を否定する運動です。 今から私が何について語ろうとしているか、もしかしたら読者の皆様は既に察しがついておられるかもしれませんね。キュビスムのことです。キュビストによる芸術運動の複雑さについてはご存じないかもしれませんが、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラック、ジャン・メッツァンジェといったキュビスムに関わる主要人物の名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。 他と一線を画すキュビスムの大きな特徴は、複数の視点の重要性を認識したことによる、古典絵画の伝統からの断絶、そしてそれゆえに「対象まるごと」を一挙に観察するという同時性の知覚をもたらしたということにあります。
観察者が選択する視点というものは、空間や時間のすべてを含むという点で特異な現象です。面白いことに、英語の「視点(perspective)」という言葉は「じっくり見つめる、よく視る、見通す」を意味するラテン語の「perspicere」に由来します。芸術の世界では、事業家の世界とは異なり、視点に関する問いは斬新なことでも独創的なことでもありません。
成功は
視点に左右されます

英語の「視点(perspective)」は、
選択された見方を表す言葉であり、二次元的表面上の物体に距離や深さ、体積があるかのような印象を与える手法の描き方のことも一般的にいう。
ラテン語の「perspicere」(見通す)に由来します。
芸術家
事業家
人々
観察物
視野
(視点)
現実とそのイラスト
(現実の描写)
古典主義
キュビスム
対象が「まるごと観察」される
パブロ・ピカソ
優れた芸術家
(1887~1973 年)
私は私が思うとおりに対象を描く。見えるとおりに描くのではない。
芸術品
製品
私の芸術的インスピレーションの主要源はパブロ・ピカソでした。実際には彼の作品であるLes Demoiselles d'Avignon(『アビニョンの娘たち』)が、このおとぎ話の執筆につながる着想源になりました。 100年ほど前、ピカソは次のように言いました。 「私が思うに、絵画においては探ることには何の意味もない。 見つけ出すことこそが重要なのだ。」
アルベルト・アインシュタインはこう言いました。「想像力は知識よりも重要だ。知識には限界があるが、想像力は世界全体を覆い、進歩を触発し、進化を生み出す。」
創造性に関しては重要な原則があります。それは、創造性は人類の既知の経験の限界や一般的に確立されたアルゴリズムによる拘束を受けないということです。創造性は、論理や数理に基づくものではなく、何よりもまず想像の世界での、あらゆる芸術の火花であるのです。 創造性とは、まさに芸術と事業家精神の「架け橋」です。
キュビスムの芸術家たちは対象を自らの構想にしたがって描き出します……対象をまるごと、そしてあらゆる側面から一挙に描き出すのです。器に並べられた果物(や花瓶に生けられたひまわり)をもはや単純に自身の両眼で知覚したように描くのではなく……対象の各側面を同時に描写するのです。さまざまな視点から対象を描写する、このような多面的な現実の同時表現が、芸術におけるアヴァンギャルドの手法だったのです。このような芸術の展望について熟考した時、キュビスムの芸術家たちの世界観と事業家たちの世界観を比較することには大きな意義があるように思えました。 複数の視点と視座というキュビストの革命的な視点は、私自身の活動領域、事業家精神についての新しい見方を追求するうえで、重要な着想源になったと自信をもって言えます。 しかし、このキュビスムのたとえの主題は、さらにまた別のアイデアにも宿ることになりました。私はキュビスムの手法に、ビジネスにおける「成すべきことについての頑固な考え」に関する事業家の無限の思索を新たな見方や視点へと変容させる法外なチャンスを見出しました。この全く新しい見方によって、多様な教訓が生まれ、新しい発見がもたらされたのです。 まったくもって、今お読みになっている物語の中心となる考えはそこにあります。事業家たちに対して、彼らの活動、周囲の環境との関わり合いについて、複数の視点と多様な見方の存在を明示することです。それを理解することで、新しく創造性あふれる解決策を見つけることが可能となります。
対象をすべての視野角から同時に見ること
似たような見方が事業家精神には不可欠
論理
分析
経験
想像力
アルベルト・アインシュタイン
著名な物理学者、ノーベル賞受賞者、相対性理論の父
(1879~1955 年)
想像力は知識よりも重要だ。知識には限界があるが、想像力は世界全体を覆い、進歩を触発し、進化を生み出す。
パブロ・ピカソ
優れた芸術家
(1887~1973 年)
『アビニョンの娘たち』
私が思うに、絵画においては探ることには何の意味もない。見つけ出すことこそが重要なのだ。
複雑な認識の重要性について
芸術と事業家精神
すべての教訓は密接に関係し合っており、しばしば区別するのが難しいほどです。なぜなら、それらの教訓はつまるところ同じ「対象」(事業家精神)を……単純に異なる見方から……多様な視角で捉えたものだからです。 同様に事業家精神の現実世界においても、ビジネスに関するこれらすべての思考や考察、考え、知覚や感情は、金魚たちの精神の中で……寓話を排して言うなら、事業家たちの世界観の中で、あらゆる特殊性と特異性を生み出しつつ複雑に織り混ざったキルトを紡ぎ上げます。 しかし同時に、「事業家精神の世界観」のパノラマについて、多様かつ時には意表を突くような視点から思索する能力を読者兼鑑賞者の皆様にもたらすことを目的として、教訓=絵画では事業家精神のあるひとつの「光景」に焦点を当てています。
第3部: 事業家の現実を描く絵画展
親愛なる読者の皆様、私がどれだけ嬉しく思い、ゴショーに代わって、皆様をこの素晴らしい「教訓=絵画展」へと歓迎しているか、きっと想像もつかないことでしょう。偉大なフランスの哲学者であるドゥニ・ディドロの言葉(であると言われています)を引用致しますが、皆様が「慣れ親しんだものの中に驚異を見出し、驚異の中に慣れ親しんだものを見出す」ことができますように。
「教訓=絵画」は、当ギャラリーの芸術的な宝石です。また一方で、新しい現実や多様な現実こそが、芸術(と事業家精神の芸術)におけるすべてであります。ふたつの見方、ふたつの説明……。 さて、「難しい話」は抜きにしましょう。あなた様のために絵画展への入場券をご用意しております……。
ピカソの助言に従い、私は事業家精神における自分自身の視座と視点を見つける努力をしてきました。かなりのところまで見つけられたと信じていますが、私の探求は決して終わってはいません。そして、私が見つけ出した事柄を、読者の皆様や事業家の皆様と共有することが大切であり、有意義であると考えております。 本書では、それぞれの視点が特定の教訓を描写する絵画として表現されており、各自の活動における固有の視点を読者(あるいは、鑑賞者)に与えるようになっています。この教訓=絵画を並べることで、読者兼鑑賞者は、さまざまな側面から多様な見方で自身の活動の360度のパノラマを把握できるようになっているのです。さながらキュビスムの芸術家たちの作品のように。 比喩として、読者の皆様が仮想の絵画展に訪れているのを想像してみるといいでしょう。この空想の、それでいてひょっとしたらこのうえなく現実的な絵画展で、人はあまたの教訓=絵画(これは水槽全体や、金魚(事業家)たちが成し遂げようと努力しているそれぞれの目標に影響を与える多様な状況や事実、要因の説明に私が使う用語です)を見つけるでしょう。
まだ「事業家の現実を描く絵画展」までの道のりを踏み出せていない(つまり、挿話をまだ読んでいない)のなら、いえ、たとえ読んでいたとしても、お伝えしたいことがあります……。 われらが魔法の金のさかなのゴショーよりも先に、実現可能な作戦を分析してみた私は、さかなの今後の運命と幸福を大きく左右すると思われる、10個の大切な教訓をお伝えすることにしました……。
1.
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3.
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5.
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7.
8.
9.
10.
金のさかなのゴショーの行動における
教訓と
結論

「教訓=絵画」
3600
事業家精神におけるパノラマ的な視点
すべての絵画は関連しています
#1
#2
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#5
#6
#7
#8
#9
#10
ドゥニ・ディドロ
作家、哲学者であり教育者
(1713~1784 年)
…慣れ親しんだものの中に驚異を見出し、驚異の中に慣れ親しんだものを見出せ。
事業家の現実を描く
絵画展
事業家の現実を描く
絵画展の

絵画
「教訓=絵画」
これよりもさらにひどい状況が唯一あります。それは、こういった自信が多くの場合にまず傲慢へとふくらみ、さらに愚鈍へと膨張していくことです。ソクラテスも「風が空っぽの虫を舞い上げるように、傲慢さも愚者を舞い上がらせる」と言っていましたよね。私の地方には「ばかにものを教えるのと、死体を扱うのと、どちらも大して変わりはない」ということわざがありますが、英語圏では、「忠告や助言というものは、その人にとってこの上ないほどに必要な時にかぎって、最もないがしろにされてしまうものだ」と言われているようです。日本語ではさしずめ「馬耳東風」といったところでしょう。
例え話として、ピカソやモネが描いた巨大な絵画とその作品の小さな一部分について考えてみましょう。その絵画のちっぽけな一部しか見ることができない観察者は、それでも絵画のすべてを理解していると自信満々です……その絵画の全貌は、見えている部分よりも何千倍も大きいというのが真実なのですが。
ゴショーのように多くの人は水槽外界(パラクアリア)、即ち周りにある環境(と「水槽の外側」)のことを全く考えません。この認識不足はまた、周りに実際に存在する環境に気づけないという状態につながります。考慮するかどうかに関わらず、この環境も、この世界もたしかに存在しています。
第1訓:肝心なのは環境
何に囲まれているのでしょうか?
水槽は
全体像の
単なる小さな一部分
水槽外界
肝心なのは環境
自信
傲慢
馬耳東風
水槽の中で暮らす金のさかなと同様、事業家とその製品も、消費者から分離された「真空」に存在しているのではなく、周囲の環境から切り離された事業家たちだけの世界に存在しているというわけでもありません。それは常に、消費者との相互関係という非常に具体的な状況のなかに存在しています。
ゴショーは水槽内から周りの世界を眺めた時、「よその」「船の外の」暮らしも水槽内の海の暮らしと全く同じであると思い込みます。確かに、他のさかなたち(水槽外界(パラクアリア)の民)の言語も慣習も風俗もやり方も……すべてゴショーが知っている世界のものと非常に似ていて、ほとんど同じように見えるため、われらがゴショーはこの偉大な水槽外界(パラクアリア)が単純に自分の水槽世界の大きな複製であるという、とても「合理的な」結論に至ります。 残念ながら、われらが小さな金のさかなは、水槽の外の暮らしは壁の内側の暮らしとは水と油のように全く異なり、対岸が見えないくらい離れている大河や大海のようにかけ離れているという単純な事実を知りません。
第2訓:所変われば品変わる
アメリカの人類学者であるラルフ・リントンは聡明にも「魚が最後まで認識できないものは水であろう」と述べました。
予想
外は、私の水槽の中と同じなだけだわ
現実
世界は多種多様です
所変われば品変わる
金のさかな
他の水槽内の住民
製品
相互関係の状況
消費者
事業家・製品と消費者は、
相互関係の状況によってつながっています
ラルフ・リントン
アメリカの人類学者
(1893~1953 年)
魚が最後まで認識できないものは水であろう
もうひとつの視点は格段に効果的です。パノラマ的な視野で「光景」を広く見渡すことができ、観察者は問題と状況と自分自身との相互作用や相関関係を視ることができます。最も大切なのは、水槽の向こう側からの視野があれば、金のさかなが周りの世界と「つながる」ことができる、ということです……。結局のところ、水中にいるなら濡れないわけにはいきませんからね。
前者の視点(問題が存在するのと同じ領域から問題を見る視点)は最も不利な立場です。 この視点から「勝利への道筋」を見ることは事実上不可能です……空間が狭すぎるせいで、金のさかなが効果的な解決策を「見出す」妨げとなっています。問題に対する「視野」が狭すぎて、判断を下すのには不十分であると言えましょう。(視野というのはもちろんパノラマのこと、視界の範囲のことです)。 勝利の全貌をはっきりと理解していない者に、勝利を見据えることはできません。 (文字通り)目と鼻の先、目から2センチほど離れたところにある大きな物(水筒とか)を詳しく観察してみましょう。少し難しいですよね。たとえ、問題の存在する領域の内側からその問題への解決策を見出せたとしても、結果的には有名な言葉にある「戦闘には勝ったが戦争に負ける」という事態になりかねません。
複数の見晴らしの利く場所(視点や見方とも言えます)から物事を評価できる人がいます。私たちの知識や認識は、どの視点を選択するかによってつねに変わります。たとえば同じものを見ている2人の人間のあいだでもしばしば解釈が「月」と「スッポン」のように大きく異なるものです。 ある領域で金のさかなに何らかの問題が発生すると、その問題はふたつの全く異なる視点から見ることができます。ひとつはその問題を水槽の内部から捉える見方、もうひとつは水槽から距離を取って外側から捉える見方です。
不思議ですよね? ゴショーは周囲には「わたの原」ばかりであることをよく知っていますが、それは目と鼻の先の環境が完全に見えていない、あるいは正しく見えていないというだけかもしれないのです……これは、次の3つ目の教訓へとつながります。
正しい視点の選択
中から観察
(狭い視野角)
外から観察
(広い視野角)
潜在的な解決策の領域
問題
問題が存在する場所と同じところから解決策は見えません
正しい視点の選択について
問題に対して

解の見える場所に立て
問題をどのように見ていますか?
さて、本題に戻りましょう。 問題と状況と観察者(自分自身)の相互作用を、問題が存在する領域の外側の視点から調査して分析できる人は、効果的な解決策をすぐに見つけられるでしょう。 問題に対するこのようなパノラマ的な視点からは、根本的に新しい解決策や新しいビジネスモデルを生み出せる可能性があります。たとえば、こうした本質的に新しい解決策は、多くの人々が支出だと考えるものを優れた収益源へと「魔法のように」変貌させるかもしれません。
それでは、どうぞゴショーに「水槽船(アクアバルコ)」を愛しているどうか聞いてみてください。そのお嬢さんはきっと金のさかなの目を大きく見開いて、困惑しながら見つめてくるでしょう。たぶん、ゴショーは自分の故郷が「船」と呼ばれているのがわかる程度にスペイン語ができるでしょうが、絶対に困惑するでしょう…。「私の国が?船ですって?ありえないわ!」 しかし「水槽国(アクアリア)」とあなたが口にするが早いか、ゴショーの女王らしい顔には優しく誇らしい笑顔がみられることでしょう。 だからこそ、視点の違いがすべての差異につながりうるのです。誰かにとってそれは水槽国(アクアリア)で、他の誰かにとってそれは水槽船(アクアバルコ)であるように。 おそらくあなた自身、選択された視点に応じて「同じもの」がさまざまな名前で呼ばれている色々な例が思いつくでしょう。
もう想像がついているでしょうが、水槽国(アクアリア)はゴショーの領地です。しかし、ここではっきりさせておきますが、「水槽国(アクアリア)」というのはゴショーとその直属の家来がこの王国につけた名前です。ゴショーの視点からすれば、自身の王国たる水槽の中は広大で開放的で……何より安定した揺るぎない水中世界です。まあ、これはある意味では正しいでしょう……水槽国(アクアリア)はゴショーやその仲間たちにさまざまなチャンスをもたらす美しい国です。しかし…… 海で波に揺られている水槽国(アクアリア)の状況はそこまで安定したものでも堅牢なものでもないことは明白です。結局のところ、環境が大きな影響を及ぼしているのですから。だからこそ、船乗りや探検家たちは波に浮かんで運ばれているこの水の世界を潜望鏡や潜水艦、熱気球から観察して「水槽船(アクアバルコ)」と命名しました。「水槽国(アクアリア)」というもとの名前を理解できる人も中にはいるかもしれませんが、それは最も機転が利いて博識な人たちだけでしょう。水槽外界(パラクアリア)の人々のほとんどは「水槽国(アクアリア)」という名前を知りませんが、「疾走する水槽船(アクアバルコ)」は耳にしたことのない人の方が少ないほどで、ペリーが率いた黒船と同じくらい有名な船になっています。「さすらいの水槽船(アクアバルコ)」と呼ぶ人もいれば、(そこまで好意的ではない呼び方で)「きょうらんの水槽船(アクアバルコ)」と呼ぶ人もいます。「海の乙女」と歌に歌う人もいれば、「夜の怪奇」と呼ぶ流派もあります。どのように名づけるにしろ、水槽船(アクアバルコ)は明らかに無視できない現象なのです。
これらの視点の違いをよく表しているのが、象のさまざまな部位……牙やしっぽ、足、脇腹を触ることでそれがどんな生き物かを理解しようとする4人の盲人についての「群盲象を評す」という仏教の物語です。象が実際にどういう生き物なのか、それぞれの盲人が違う解釈をするのです。示唆に富んだ寓話ですね。しかし、私たちのお話では水槽国(アクアリア)そのものについてのもっとふさわしい例があります……。
問題
問題のパノラマ的な見方
解決策1
解決策2
解決策3
解決策N
「群盲象を評す」という寓話
水槽の中からの視点
大陸からの視点
名前と理解度
異なる場所や状況下において、同じものでも違う名前があったりします
さすらいの「水槽船」はどうですか?
私の国が?船ですって?ありえないわ!
翻訳の荒波
第4訓は前訓から派生するものです。端的には、環境の中で影響ばかりを被る場所から移動し、環境に完全に依存する状態をあらためて「選挙権」を獲得するには、いわばゴショーは自分の狭い水槽の壁を広げて、かつては環境の一部であったものを組み入れるための空間を作らねばならない、ということです。
興味深い事実を押さえておくと、こうした関係性の欠けた事象は、現実においては否応なしに「結果」として現れます。 かつて、キツネが星の王子さまにこう言いました。「ぼくにとって、君はまだ、ほかの 10 万人の男の子と何も変わらない。だから、ぼくには君が必要じゃない。君にとってもぼくは必要じゃない。ほかの 10万匹のキツネとなんの変わりもない。でも、もし君がぼくをなつかせたら、ぼくらはお互い必要なものになる。ぼくにとって君は世界で1人しかいない男の子になる。ぼくも君にとって世界に1匹しかいないキツネになる……」 親愛なる読者の皆様、このキツネは関係性についてうまく語っていると思いませんか……?
この教訓の基盤となっている由緒ある哲学の原理を簡潔に述べると、「原因と結果の相互作用は、そのふたつのあいだに関係性がある場合にのみ存在する」ということです。 こうしたつながり無くしては、原因と結果による「デュエット」は存在しません。この点において、つながり(連結、連関)こそが原因と結果の関係性を生み出しているのだと言えます。
そしてこれこそが、事業家が陥る大きな間違いなのです。つまり、頑丈な橋……事業家と顧客とのあいだの、効果的で信頼性の高い関係性……を築くことなく、製品開発や顧客の開拓に走ることです。そういう意味では、事業家精神というものは事業家と顧客との関係性の構築に関わるものであって、製品だけ、顧客だけを考えればいいというものではありません。
第4訓:原因と結果、そしてその関係性
ただ、キツネの言う「関係性」は、より物質的にけん引を例にとっても表現できます。 自動車工業の世界では、トラクター(原因)を使ってトレーラー(結果)をけん引します。けん引のための連結がなければ、その原因と結果は潜在的なものにとどまります。世界で最も強力なトラクターでも、トレーラーにつながれるまでは潜在的な原因に過ぎません。トラクターを正真正銘の原因に変化させるものは、トレーラーとの連結なのです。
水槽の境界線の拡大は不可欠です
関係性の重要性について
つながりこそが原因と結果の関係性を生み出しています
関係性の重要性について
結果
原因
潜在的な原因
潜在的な結果
関係性
製品
消費者
関係性の欠如
事業家がよく陥る間違い
原因と結果、そしてその関係性
ぼくにとって、君はまだ、ほかの 10 万人の男の子と何も変わらない。だから、ぼくには君が必要じゃない。君にとってもぼくは必要じゃない。ほかの 10万匹のキツネとなんの変わりもない。でも、もし君がぼくをなつかせたら、ぼくらはお互い必要なものになる。ぼくにとって君は世界で1人しかいない男の子になる。ぼくも君にとって世界に1匹しかいないキツネになる……
関係性の欠けたすべての事象は
結果として現れます
第5訓:認識範囲の拡大
ゴショーが水槽内の空間を拡大させて壁を拡張すれば、自分の水槽国(アクアリア)のニーズに合わせて外の環境の一部を「併合」できたということですから、単純に環境を支配する力が高まったということなります。この新しい情勢はさらに、ゴショーの周囲への視野の拡大にもつながります……われらがヒロインは、より良く、より広く観察できるようになり、新しく拡張された水槽内での相互作用をこれまでよりもしっかりと見ることができます。
さらなる拡大=より広い支配
支配領域
ある個人が(何よりもまず自身の頭の中で)見渡す空間の広さによって、その人が扱えるリソースの量も決まると言えます。一流の芸術家たちや科学者たち、指導者たち、そして事業家たちは世界中のあらゆる発想とリソースを活用します。ハリウッドがお好きな方もそうでない方もいらっしゃるでしょうが、ハリウッドは間違いなく地球上のすみずみに至るまであらゆる才能ある人材を魅了しています。 そして当然ながら、ある個人の空間(いわば競技場)は、ちょうど原因と結果の相互作用がはたらくところでもあります。原因と結果の関係性は人生における基本原則ですが、事業家の舞台においては、これが事業家と顧客との相互関係(双方が代わるがわる原因と結果を担う関係)へと変容します。 というわけで、このようにして、みっつの教訓はひとつにつながります。
空間について、第3訓(視点)と第4訓(原因と結果)、そして第5訓(空間)とを結びつけつつ、簡潔かつ現実的な哲学的視座からの検討をしてみたいと思います。まず、視点と空間は相互に依存し合っていると言えるでしょう。船員やパイロットはかなり広い空間を捉えて扱いますが、その結果、机に向かって作業ばかりするような会社員とは(あらゆる意味で)異なる視点を持ちます。逆に言えば、バスコ・ダ・ガマやコロンブス、ロアール・アムンセンといった偉大な探検家たちの視点が彼らを広大で果てしない空間への冒険へと導いたのです。 さて、各人の事業家精神の定義はそれ自体が「事業家にとっての空間とはどの程度広くあるべきなのか」という問いに対するその人の固有の視点を表すものです。スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクといった意識を高く持った人たちは、ある特別な視点を持っているため世界中の(あるいは宇宙にまで至る)領域で活動しますが、別の人たちは近くのコンビニエンスストアの経営で充実しているかもしれません。裏を返せば、空間の概念の持ち方によって事業家精神の範囲が明確化されるのです……雄大なシルクロードの商人たちは、当時の限られた技術にも関わらず、欧州と東洋のあいだに空間があることを知っていました。そのため、彼らにとっての事業家精神は何千里もの距離を超えた取引をすることだったのです。何らかの理由で、自分たちの空間に制限があると考えた他の商人たちは、街角で取引をします。
哲学的な遠出
哲学的な遠出
空間や見方、その相関関係について
特有の見方を選択する
確立された秩序について
新しいルート
新しい考えやコンセプト
空間のコマンドについて
— 顧客
— リソース
事業家
ゴショーのいる世界にはさまざまな金魚たちがおり、水槽外界(パラクアリア)の一部を征服して必要な空間を併合する能力もそれぞれ違います。ただし、この能力を決める重要な規則がひとつあります。ここから第6訓でお話ししましょう。
異なる能力 — ひとつの普遍的法則
考えてみてください。愛しの水槽国(アクアリア)と雄大な水槽外界(パラクアリア)のふたつの世界を分かつ「危険に満ちた」境界線に近づく時、ゴショーはいつも名状しがたい無限の恐怖を感じるのです。
水槽の壁を拡張し、そこから視野を広げて水槽の実際の容量を増やす能力は、われらが金のさかながその壁の向こう側にある世界(環境)をどの程度、そしてどれだけよく理解しているかにかかっています。 環境は水槽に重大な影響を及ぼしますし、幸せで生き生きとした民の住む水槽国(アクアリア)のうごきの速度も方向も環境によって決められます。金のさかなはよその世界についてよく知らないため、水槽国(アクアリア)の国境に近づく気さえ起きず、たとえ自由が制限されるとしても、未知で未開の水槽外界(パラクアリア)の流れから逃れて安全な水中にとどまることを選ぶでしょう。
第6訓:自由か安らぎか?
水槽の壁の拡張には、外の世界についての
知識が不可欠です

確実性
不確実性
そこに何があるか分からないわ :-(
未知
しかしどう見ても、自由への探求のためには、ゴショーはこれまで未知であった水槽外界(パラクアリア)にある市場深部(マーケットデプス)を切り開く探検家になり、水槽世界の境界を超える領域について何らかの発見をしなければなりません。また、向こうの世界の生き物とも会わなければ(いっそ友達にならなければ)いけません。 そしてこれは第7訓、第8訓および第9訓へとつながります。
自由か安らぎか
水槽外界への旅行案内
ここでもうひとつ、大切な哲理をご紹介しましょう。 事業家が問題解決のための手順の開始地点として選ぶ位置と、手順を完了としてよいと考える位置は、完全に個人の信念と憶測に基づいている……つまり、事業家自身の世界観によるものである。
よその世界に注意を向けて冒険の航海へと乗り出すために、ゴショーはまず自分自身の世界観を変えなければなりません。現在のゴショーの生活における視野は、変化に対する抵抗感をもたらし、金のさかならしい(制限はあっても)快適な暮らしを可能にするものでした。……生活という鏡に、初めから慣れ親しんだすべての事柄が映っているのです。この間違いこそが、金のさかなに対する極悪非道ないたずらで、彼女を水槽の内側に「没頭させた」ものなのです。
第7訓:変化を拒むべからず
世界観の全面転換
視点を変えることが非常に重要です
意思決定の手順の開始地点は世界観によって決められます
信念
憶測
世界観
変化を拒む必要はない
第一訓の例え話から展開させて、四角Cで輪郭が描かれた絵画があるとしましょう。これはふたつの小さな絵画BとAを含みます。ここで、四角Aで囲まれた部分だけが直接観察できる絵画の一部で、残りの(Aの境界の外側)部分は観察できないものとしましょう。 この場合、四角C全体に描かれた絵画を見極めたり構想したりすることはできないでしょう……あくまでもAで囲まれた部分しか見られないのですから。それでも、もっと何かがあるはずだと暗示する、心の奥深くの漠然とした(あるいは明確な)感情が私たちを責めさいなむのです……。 もちろん、四角Aに描かれた断片のみを基にしてBとCに何が描かれているか推測はできますが、この場合、推測は可能性の範疇を超えることはありません。 わかりますよね。私たちは自分自身の無知や「盲目」、不確実性を感じ取り、そこから……恐怖が生まれます。 この事象が人生における不確実性の一番の理由です……。誰もが、直接見えて感知できて、理解できるだけのちっぽけな断片から「人生のカンバス」の全体像を見極めることを強いられているのです。 そしてここから次の教訓、第9訓へと向かいましょう。
第8訓:未知への恐怖
さて。水槽の外での探険を実のあるものにするために、金のさかなのゴショーは未知への恐怖を克服しなければいけません。このような恐怖は常に複雑さと不確実性から生まれるものです……言い換えると、環境についての無理解に起因する症状なのです。恐怖と無知は互いに関連する現象です。
A
B
C
観察される絵画の範囲
絵画の全貌
とても恐い
恐くない
何も知らない
すべて知っている
恐怖と無知は
関連した現象
(絵の円Aのような)全体像の一部分だけを見ていると、その部分を全体図(円B)であるかのように捉え、残りの部分を想像に任せてしまうかもしれません。こうして作品の決定版、自分にとって明快で論理的に感じられる全体像(円C)を想像でひねり出すことになります。 実際のもの(ここではキリン)と、キリンの一部のみを観察して巧みに想像したものとは、それぞれ全く異なります。
第9訓:一部か全部か?
事業家精神にたとえるならば、ターゲットとする顧客層の選択を誤ってしまうという事態に相当するでしょう。 事業家が丈夫な弾性材料でできたマウスピース製品を取り扱うとしましょう。歯学の分野では「アライナー」として知られるものです。事業家はこの標準的なアライナーを開発して、製造して……それは大量生産され、市場で流通しました。しかし、なぜか市場では売れていません。なぜでしょうか? ……いい質問ですね。 その理由は、この例でいえば、市場での真のターゲットとなるべき顧客層はキリンだからです……クロコダイルはいないのです(ついでに言えば、アリゲーターもいません)。 それでもその事業家は、市場で見かけたのがクロコダイルばかりだったと確信していて(彼にとって、キリンはいなかったのです!)、それゆえに商品はクロコダイルの歯に合うように作られていました。 でも残念ながら、キリンはクロコダイルとはいくぶんか違う顎の構造をしていて、クロコダイル用アライナーはキリンには合いません。最悪なことに、キリンの前歯があるのは下あごだけで、上あごには全くないのです! 上あごには代わりに硬い口蓋があります。キリンは、大枝小枝を下の歯と口蓋で挟んでぎゅっと掴み、木や草の茂みからエサをむしり取ります。でも今キリンは、嘆かわしくも、クロコダイル用アライナーによる余分な歯が邪魔で枝をかみ切れないだけでなく、口も閉じられないという窮地に至っています。しかもキリンは口を開けたまま長いこと歩き回ることができません。そんなわけで、キリンはこのヘンテコな道具が気に入らず、もはや買わないのです。 そして以上がことの次第というわけです。 一目見て、読者の皆様はちょっと極端な例だと思われたかもしれません。私もそう思います。でも、注意深く探してみれば、同じような過ちによる多くの「生きている」事例がきっと見つかることでしょう。
あるものの一部分から全体を理解しようとする試みは、過ちにつながります
А
B
С
ターゲットとする顧客層:的を射ることの重要性
想定のターゲット顧客
製品
合う
合わない
実際のターゲット顧客
一部か全部か?
僕はクロコダイルじゃないよ!
???
水槽の現在の境界線は、4つの魔法の手順を踏むことで「算出」できます。その手順を挙げていく前に、自分の「水槽国(アクアリア)」の境界線をわざわざ算出するべき理由を話すのが筋ってものですね。算出するべき理由は色々ありますが、ひとつ大切なことは、「水槽国(アクアリア)」の終わりと「水槽外界(パラクアリア)」の始まりがどこかわかっていれば、同時に誰が味方で誰が敵か、誰がチームメイトで誰がライバルか(いえ、もしかしたらライバルではなく単純に自分のチームに所属しない人たち、とも言えるかもしれません)ということもはっきりとわかります。どこに忠誠心があるのか、意思決定する際の根拠は何であるべきか、という部分がはっきりするのです。これは、「水槽外界(パラクアリア)」の不幸を願うことや「水槽外界(パラクアリア)」へ本当の戦争を仕掛けること(戦争は狂人の遊戯です。)を言っているのではありません……むしろ、私たちの関心は広大なパノラマと皆に利益をもたらすシナリオにあるのです。それに、競技場でサッカーフィールドの境界線がどこに位置するのか、自分のゴールはどこにあるのか、誰が本当のチームメイトかについて明確に知っておくことは損にはなりませんよね。オウンゴールやチームメイトに向けてスライディング・タックルしてしまうような失態(悲しいことにも、人生で頻繁に引き起こされてしまいがちな過ち、とも言えます)を防ぐことにもつながります。
最後となる第10訓は成功の秘訣とも言えます。われらが美しい金のさかなに、ふたつの行動を学んでもらうためのものです。つまり水槽の適切な寸法を決めること、そして環境の中でのかじ取りにおける基本的な原則を理解することです。 これを踏まえて最終訓を見てみましょう。 第10訓:自分の世界を評価すべし
(ゴショーの魔法の方程式)
a
b
X
R
Y
環境の評価
手順その1:
意義のある研究課題を選ぶこと
手順その2:
その課題に合った分析方法を選ぶこと
手順その3:
その課題の存在理由について、納得できる解釈を考え出すこと
手順その4:
選んだ課題に対して最適な解決方法を選ぶこと
水槽間での違い
さて。自分の「水槽国(アクアリア)」の境界線を算出するべき理由にも触れたことですし、次はどのように算出するかを見ていきましょう。手順その1は、金のさかなが自分の今の暮らしや活動において意義のある研究課題を見つけ、選ぶこと。
手順その2は、その課題に合った分析方法を選ぶこと。
手順その3としては、その課題の存在理由について、金のさかな自身が納得できる解釈を自分で考え出すことが必要です。(興味深いことですが、課題の存在理由にどんな解釈をしても気分はマシになります。ただし、本当に役立つのは正しい解釈だけです。)
最後の手順その4は、選んだ課題に対して最適な解決方法を選ぶことです。
これはつまり、異なる「水槽」がいくつかあるとしたら、課題を解く方程式も課題の分析方法も、課題の存在についての解釈も解決策も、それぞれの「水槽」特有のものになるということです。ですから、これらの「水槽」の類似点や相違点は、上記の4つの主な要因によって具体的に決まるのです。
なぜ
境界なのか?
そしてこれこそが単純ながらも魔法のような成功への秘訣なのです……ですが、次の物語では、この秘密についてのもっと詳しい展開をお話ししましょう。
4つの手順
自分の今の暮らしや活動において意義のある研究課題を選ぶこと
その課題に合った分析方法を選ぶこと
その課題の存在理由について、納得できる解釈を考え出すこと
選んだ課題に対して最適な解決方法を選ぶこと
物事を比較して違いを区別する能力がなければ、たとえば、近所の水槽で暮らす他の金魚たちが消滅していく中で、ある1匹の金魚は水槽の中で生きのびている、その理由を解明することはできませんよね?
これは予定になかった、本当に最後のおまけの教訓です……。 実生活の中では、物事を見比べる能力と違いを見分ける能力は互いに分かちがたく結びついていますが、実は後者の能力こそ、注意の行き届いた意識的な人間の活動に必要不可欠な礎となるものです。 また、違いを見分ける能力は健全な精神の基盤にもなると言えます。 ある人が歯ブラシと歯磨き粉の違いを判別できなかったら、タクシーとパトカーの違いがわからなかったら、もし誰かが橋と箸、あるいは石と医師を混同し始めたら、もし観察者が椅子と肘掛け椅子の違いや空色と青色の違いという、重要ながらもわずかな違いが判らなければ……最終的には絶対に困った事態が起きる、ということには、おそらくどなたも異論はないでしょう。
おまけの教訓:識別できるようになるべし
見比べる能力と違いを見分ける能力
識別できるようになるべし
死んださかな
情報
A
B
情報
多い
少ない
小石
生きているさかな
酸素のある水
容器
小石
容器
酸素のない水
生きているさかな
生きているさかな
相互作用の選択項目
水槽を部分やその関係性によって
調査することは有効です
観察される図
違いの特定
比較
Afterword
読者の皆様、お時間を頂き、そして金のさかなのゴショーと会ってくださって、ありがとうございました。
この寓話では、重要な点、事実、水槽国内全体の状態に影響を及ぼす、あるいはわれらのゴショーが成し遂げたいと思っているそれぞれの成果に作用する状況について説明する際に「教訓」という言葉を使いました。
どの教訓も互いに密接に関連しており、多くの場合、各訓(というよりは、各訓に示される概念)に明確な線引きをすることは不可能です。いずれもたいていは複雑に絡み合ってほどけない思いや考え、意識の塊となり、本物の迷宮を作り上げています……言っておきますが、ゴショーがミノタウロスよりも恐ろしい生き物に出会うかもしれない迷宮です。ゴショーはどんなに勇敢かもしれませんが……。
事業家精神の現実世界に戻りますと、ビジネスに関するそんな思いや考え、意識の絡み合った塊は、金魚たち……つまり事業家たちの多種多様な思考のパラダイムと溶け合って一体になっているものです。
とはいえ、10の教訓はそれぞれ、こうした思考におけるあるひとつの具体的な側面へと収束するようになっており、読者の皆様が全く新しい、しばしば最も意外な側面からこの思考のプロセスを分析するための一助としていただくことを目指しています。
親愛なる読者の皆様……悲しいですが、寓話やおとぎ話には(たとえ事業家の話であっても)必ず終わりがあります。つまりお別れの時間です。「また会いましょうね!」
そしてもちろん、私たちは水槽外界(パラクアリア)の、激しく荒れ狂う市場の波の上でまたきっと会えるはずです……そうしたら、暖かくて居心地の良い、そして飽くなき虚無の渦へと瞬く間に飲み込まれてしまう水槽の流れの、古くなじみ深い世界を離れて、一緒に漕ぎ出してゆきましょう。
さて。最後に、私の故郷のおとぎ話でよく使われる結びの言葉でお別れしましょう。「この寓話をよくわかってくれたなら、ありがとう、友よ、私の胸はいっぱいです!」
ありゴショーございました。
Jaroslavs Kaplans(ヤロスラフ・カプラン)